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工芸をはぐくむ人と場所

小石原焼について

  
今日は、民藝陶器として有名な小石原焼(福岡県東峰村)について
お話してみたいと思います。
 
 
大分県との県境にほど近い英彦山の麓で
小石原焼の源流と考えられるやきものが始められたのは、17世紀半ば。
 
朝鮮出兵に参陣した黒田長政が連れてきた陶工・高取八蔵の子孫が
小石原で陶土を見つけ、窯を構えたのがはじまりと言われています。
 
その後、黒田藩主が伊万里から陶工を呼び、磁器を生産させたこともあったのですが、
17世紀の後期、一時小石原の窯業は途絶えてしまったようです。
 
でも、18世紀には再興して、すり鉢や甕などの日用の陶器を生産するようになり、
現在の小石原焼に近いものが 焼かれるようになったと考えられています。
 
この時点をもって、民窯としての小石原焼が成立したと言えるのかもしれません。
 
 
芸術性・装飾性を重視した伊万里や鍋島などの絵付磁器とは違い、
小石原のやきものは土ものであり、あくまで日常の器として作られたもの。
 
ゆえに、加飾も簡素。
 
「飛びかんな」や「刷毛目」「櫛目」など、素早く大量に加飾できる技法を採用し、
化粧土を掛けた表面を削り落とすことによって独特の美しさを生み出しています。
 
このような日用品に潜む装飾の美しさこそは、
民芸運動で言うところの「用の美」という表現に集約されるのではないでしょうか。
 
 
その後、小石原焼の陶工が幕府の天領である日田の代官に招かれる形で、
大分県側には、小鹿田焼(日田市)という分流ができました。
 
小鹿田が一子相伝によっていまも10軒あまりの窯元が伝統を守り続ける一方、
小石原は昭和の民藝ブームの時期に、窯元の数が50軒あまりに増加。
 
マイナー路線の小鹿田とは一線を画し、メジャー路線に舵を切った小石原の課題は、
今後、伝統と現代性を両立させた新しい時代の民藝陶器を
作り出してゆくことなのではないか、と思います。
 
 
そういったことを踏まえ、
「神楽坂 暮らす。」では、5年ほど前から、小石原のふたつの窯元に注目してきました。
 
ひとつめは、伝統を忠実に再現する確かな技術で、
「用の美」を体現する美しい器を制作する民窯、鬼丸豊喜窯。
 
ふたつめは、伝統の技を現代の食卓にマッチするようにアレンジし、
クリエイター的なスタンスで、モダンな器を制作する鶴見窯。
 
 
鬼丸豊喜窯の作品は、すでに店頭でご紹介しており、
鶴見窯の作品は現在お品切れしていますが、秋以降に再入荷する予定です。
 
どうぞおたのしみに。
 
 
鬼丸豊喜窯の商品
 
 
(2013年6月7日)

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